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制度とか、伝統とはなんなのだろうか。

「「制度」とは本来、諸個人が自由に取り結ぶ社会的関係性のさまざまな実験場において、人々が絶えず創造的に作り出すべきものであり、その「生成変化」に対する主体的なかかわりこそが重要である」杉村昌昭。フェリックス・ガタリ他『精神の管理社会をどう超えるか?――制度論的精神療法の現場から』(松籟社、2000年)12頁。

制度や伝統が個人の前に立ちはだかり、個人はそうしたものを単に模倣するという形ではないことが、すくなくともここに表明されている。

''「自由と制度」''

誰しも自由でありたい。自由に生きる。国籍にとらわれることなく。しかし現実にはパスポートにより、私たちの自由な移動は妨げられている。国交を結んでいる国が少ない中華民国(台湾)の友人は言った。「日本人はいいね」と。

自由に山に行く。自由に滑る。私たちはしかし、歴史が作り出してきた制度の中にある。クラブの審議。さまざまな研究講座。それらは事故を起こさないがために、歴史の中で形成されてきた智恵なのだ。

しかしそうした制度が肥大化し、逆に個人の自由を束縛する事態が生じる。クラブを三年目でやめていった人が、卒業後数年たって「あなたは保守的だった」と私に述べた。自分では自由を追求してきた、ラディカルに行動してきたつもりだったが、その人にはそう見えたのだ。

''「センスの共有」''

現役の時、センスの共有をはかるにはどうしたらよいかという議論があった。一つの現実的な答えは、合宿をするということだった。

現在、いわゆる「社会人」的な山行をするようになり、センスの「共有」というよりも、お互いのセンスの「違い」の確認が大事だと思うようになって来た。行動は必然的に個人主義的になる。

しかし突き詰めれば、「違い」を確認しただけでは済まされない事態が生じる。「俺はのっこしたほうがよい」というのと「引き返したほうがよい」などなど、対立が生じる。現在を「緊急事態」と捉えるのか、「それほどでもない」というのか、既にそこから認識の齟齬が生じる可能性がある。

アカデミックな言葉を使えば、真の多元主義は可能かという問題に他ならない。「他人とかかわりを持つ」のが大事だとする文化と、「干渉されたくない」文化を持つ人は、お互いに住み分けることができないのである。価値は、文化は、そこでは現実にはどちらかのパワーポリティクスにより決定される。

''制度の弱点、体制の弱点''

「一つの文明がもっている弱点は、その落伍者、それに適応できなかった者を通じて、もっともよく判断できる」(ドリス・レッシング『草は歌っている』より)

この言葉は文明論のコンテクストで登場している。それは制度にも当てはめられないだろうか。(たいら)

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